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吉成社長が影響を受けた4人のビジネスマン(3)

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「うちのコンピューターを売ってくれない?」

――自販機商法を学ばれたあと、いよいよサクセスを設立されたのですよね。

吉成 1978年の創業当時は「サクセスアチーブメント東京」という会社名で、SMI(サクセス・モチベーション・インスティテュート)というアメリカの会社の教材を取り扱っていました。

 

――教材の内容について教えてください。

吉成 簡単にいうと自己啓発の教材ですね。自己分析をして、人生目標を立て、それを達成するための行動計画を作るというもので、1セット20万円ほどもする高額商品でした。

 

――となると、一般の家庭に販売したブリタニカ百科事典や店舗を中心に営業したパールベンダーとは、営業先がまったく異なりますよね。

吉成 「人生に目的を持って成功したい」というビジネスマンに向けた教材でしたから、主な顧客は中小企業の社長や、生命保険の支部長・支店長といったセールスマネージャー、それからいろんな業界のトップセールスマンでした。一般のサラリーマンには響かない教材でした。

 

――大企業の中間管理職やヒラ社員ではなく、小さな組織でもトップにいる人を狙って営業されていたのですね。

吉成 はい。その時の顧客のひとりがソード電算機システムの社長の椎名堯慶さんでした。 当時はまだパソコンという言葉さえなく、コンピューターはとても高価なものでしたが、ソードはそんな時代に20万円台という格安のコンピューターを開発・販売していました。アップルが初期のマイコン「Apple I」を出した翌年にはソードは「M200」を出し、「日本のアップル」と異名を取っていたのです。じつは、サクセスはゲーム開発に踏み込むことになったのは、「君、うちのマイコンを売ってくれない?」という椎名さんの一言がきっかけでした。

 

※アップルのマイコン「Apple I」は1976年発売、ソードのマイコン「M200」は1977年発売で、マイコンベンチャーとして知られたのもこのあたり。ただしソードのマイコン「SMP-80シリーズ」はアップルよりも早い1974年に発売。

 

知識ゼロからのスタート

――コンピューターを取り扱ったことのない吉成社長に、椎名さんはなぜそのような依頼をしたのでしょうか?

吉成 ソードのマイコンは僕が売っていた教材と価格帯が近く、ソードがマイコンを売るターゲットとして想定していたのも、僕が得意とする中小企業だったのです。とはいえ、セールスマンが自分の売る商品のことを何も知らないのでは始まりませんから、依頼を受けるかどうかを決めるために、僕はまずコンピューターの勉強を始めることにしたわけです。

 

――そのあたりの顛末は、以前にもお話を伺いましたね。まったくコンピューターの知識がなかった吉成社長は、本を買い込んでコンピューター言語の勉強をされたのだとか。

吉成 はい。当時はコンピューター本体とベーシックの教本をセットで売るのが一般的でした。コンピューターは買ってすぐに使えるようなものではなく、使うためには付属の教本を読んで、自分の会社に必要なソフトを作らなければならなかったのです。

 

――あらゆるソフトが簡単に手に入る現在とは、まったく状況が異なっていたのですね。ハードルが高すぎです!

吉成 プログラムも、本屋に並んでいるのはベーシックよりもアセンブラのほうが殆どで、、知識ゼロの状態から勉強するのは本当に大変でした。勉強してみてわかったことは「自分はプログラマーには向いていない」ということでしたね(笑)。 いろいろと考え合わせて、ソードからの依頼は辞退することにしました。

 

猛勉強で気づいたこと

――わざわざコンピューター言語の勉強までしたのに、契約に結びつかなかったのはもったいないような気もしますね。

吉成 たしかにその通りですが、あの時コンピューターの勉強をしたことが後にゲーム開発に踏み出すきっかけとなり、会社の方針を考える上でもとても役に立ちました。そう考えると、椎名さんとの出会いがなければ、サクセスの今はないとも言えます。

 

――サクセスは経営理念として「我々の使命は、ソフトウェア開発という文化の創造です」という一文を掲げていますが、ソフトウェア開発に狙いを定めたのも当時の勉強の成果なのでしょうか。

吉成 はい。苦労して勉強したおかげで、ソフトウェアを使えばあらゆる目的のツールを自由自在に作り出せるということに気づいたのです。そして、ゲーム業界で仕事をするのならソフトウェア開発の能力が強力な武器になる、と。ところが、サクセスがゲームの仕事を始めた頃は、まだその重要性に気づいていない人が多かったんです。

 

――そういった状況の中では、吉成社長が得た知識は大きなアドバンテージとなりますね。

吉成 当時はインベーダーの最盛期で、業界内では「インベーダーの次は何が流行るのか」「インベーダーのブームはいつまで続くか」といった議論がありました。「パチンコが戦前からずっと続いているように、インベーダーのブームはまだまだ続くだろう」と予想する人がいれば、「これもブームの一つだから、何れ終わる」という人もいました。

僕は、「ソフトを作り変えるだけでまた新しいゲームができる」と思っていたので、インベーダーはそのうち飽きられ、別のゲームが台頭するだろうということが容易に想像がつきました。まあ、具体的にどんなゲームが来るかまではさすがにわかりませんでしたけどね(笑)。

 

――椎名さんとはその後、お仕事でのお付き合いはあったのでしょうか。

吉成 これまでに名前を挙げた篠澤さんやショーン・デールさん、それからこの後お話しする北尾とは違い、椎名さんと一緒に仕事をしたことは一度もないんです。にもかかわらず彼のたった一言が僕のビジネスマン人生を大きく変えたことを考えると、出会いとは不思議なものだなと感じますね。

 

これが当時20万円代で売られていたソード電算機システムのコンピュータ。これを売ることを検討したことが、その後のゲーム開発につながる。

 

吉成社長のつぶやき(41)

ソード電算機システムが日本のアップルと呼ばれていたんですね。

『椎名さんに会ったのが昭和53年の末だったんだけど、当時は週刊誌や経済誌に頻繁に記事が出てましたね。紛れもなく時代の寵児だった。彼の年齢も確か31か32歳で、年商も100億円は超えていた。ゲーム業界で既に大手だった当時のナムコが、ほぼ同じような規模だった』

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