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「だったら、自分で作ればいい」(3)

売れたのは、たった80枚弱

――さまざまな苦労を乗り越えてようやく完成した『PLAY BALL』ですが、売れ行きはいかがでしたか? 吉成 何千枚も売ろうと意気込んでいたのですが、結果は惨敗でした。2年がかりで、家を1軒買えるくらいのお金を注ぎ込んで作ったのに、売れた数は80枚弱! 赤字も赤字、大赤字でしたね。   ――1作目で思わぬ痛手を被ったことで、2作目の開発を躊躇することはありませんでしたか? 吉成 やめようとはまったく思いませんでした。どんなに失敗しても成功するまでやれば成功だ、と思っていましたから。それに、手元には売れ残った基板がいっぱいあるわけです。その基板に違うソフトを載せて売ればいいわけですから。   ――1984年に2作目『オセロ』を発売されていますが、2作目をオセロにしたのはなぜでしょう? 吉成 1作目の『PLAY BALL』を作っているころは、サクセスの社員は僕とプログラマーの2人だけでした。だからプログラマーが作業している間は、僕も彼に付き合ってずっと会社に残っていたんです。だけど僕では専門的な作業は手伝えない。それで、※マイコンに入ってたオセロのゲームで暇つぶしをしていたんです。おそらく1年以上はずーっとやっていましたね。 で、「こんなに長い間やっても飽きないんだから、オセロならきっといけるんじゃないか!?」と考えたわけです。まあ思いつきみたいなものですが、1作目を野球ゲームにしたのも「野球なら売れるだろう」という単純な理由でしたしね(笑)。 おかげさまで『オセロ』はなんとか1000枚くらいは売れて、残っていた基板もおおむね使い切ることができました。 ※当時はまだパソコンという言葉が一般的に使われていなかった。  

インベーダーにはまだまだ遠く…

――開発期間でも売上でも、1作目を大きく上回る結果となったのですね。 吉成 とはいえ、まだまだ赤字。弱小も弱小のメーカー時代が続きました(笑)。 当時のアーケード業界は、インベーダーゲームのタイトーが巨大な存在で、当時、僕の生きている内にタイトーを凌ぐ会社が出てくることなど、想像できませんでした。ゲームセンターには、タイトーの元祖『スペースインベーダー』を筆頭に、タイトーのライセンス商品から違法なコピー商品まで、あらゆるインベーダーゲームがひしめいていて、ゲームセンターという言葉以上に「インベーダーハウス」といった言葉が使われていました。 インベーダー全盛期のタイトーの経常利益は四百数十億円くらいで、当時のトヨタや新日鉄と並び称される程の企業でした。そこに、セガやナムコ、データイーストといったいろんなメーカーがインベーダーの次を狙っていました。   ――そこに切り込んでいくために、何か工夫されたことはありますか? 吉成 売れるゲームを作る以外にありません。アーケードゲームの業界では、メーカーはディストリビューターという基板の問屋さんに商品(基板)を卸し、そこから各オペレーターへと流通していきます。ですからメーカーがすることは、開発したゲームをいくつかのゲームセンターでテストしてもらい、あとはそこでの売れ行きデータなどを添えて、ディストリビューターにお任せするしかありませんから。 僕もよくテスト機を置いてもらったゲームセンターを覗いては、お客さんの反応を見ていたものでした。
第1回03『オセロ』のパンフレット
『オセロ』のパンフレット
 

吉成社長のつぶやき(3)

どんなゲーム作りも楽しいという吉成社長。プレイヤーとしてはどんなジャンルが好きなのだろうか。 『パズルゲームが好きですね。ストーリー性の高いRPGとかシミュレーションゲームはやらないですね。だってリアルのほうが面白いから。実生活で本物の格闘をやっていると、格闘ゲームなんて屁みたいなもんだって思っちゃう。シミュレーションは、ビジネスで毎日やってるし』

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