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「だったら、自分で作ればいい」(2)

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手さぐりは続く・・・

――基板の開発は難航したようですが、ソフト開発のほうはいかがでしたか?

吉成 これまた大変でしたね。今では考えられないような初歩的な失敗もずいぶんしました。

僕は「インベーダーに負けないものを!」と意気込んでいたから、8色使いの『スペースインベーダー』に対抗して「『PLAY BALL』は倍の16色だ!。ついでに解像度も倍にしてみよう!」と開発に取り組んだんです。ところがアーケードのモニターでは、そもそもそんな解像度に対応できていなかった。

こんなこともありました。最初に関わったプログラマーが、ひたすらフローチャートを書いていたから、「へえ、ソフトの設計はこんなふうにやるんだ」と感心して眺めていたんです。

 

――フローチャートで設計するなんて、すごいですね!

吉成 残念ながら、そのフローチャートの出番は最後までありませんでした(笑)。

 

――当時はまだ新しい業界ということもありますし、新規参入者ならではの苦労も多かったのですね。

吉成 何から何まで手探りでしたから。たとえば『PLAY BALL』のキャラクターデザインも、最初はデザイン会社に発注していたんですが、上がってきたデザインは気に入らないものばかり。僕の意図がまったく伝わらないんです。まあ無理もない話で、当時はいわばコンピューターゲーム業界の黎明期。ゲームのデザインができるようなCG会社なんて存在してませんでしたから。たまたま僕が子供のころから絵が得意だったこともあり、結局、自分で描いてしまいました。

 

膨大な手間を超えて

--それでは、ゲームのグラフィックはすべて吉成社長が描かれていたのですか?

吉成 1996年ごろまではずっと僕自身でも描いてました。全部で100タイトルぶんくらいでしょうか。この部屋の壁にかけてある絵も、僕が描いたものです。

当時はこんな大きな方眼紙なんか市販されていないから、これまた建築事務所の製図板を借りて、線を一本一本引いて手製の方眼紙を作り、それを大判の紙でもコピーできる専門業者に持っていってコピーしました。僕がそこに鉛筆で絵を描いて色鉛筆で塗りつぶしたものを見ながら、プログラマーが1ドットずつ、16進数でコードを打ち込んでいったわけです。

ゲームで使用する音声も、雑音の入らない深夜に、自宅で自分の声を収録したものを使いました。

 

――まだゲーム作りが完全にデジタル化されていなかった時代ならではのエピソードですね。

吉成 この時の、アナログで描いて手入力するという非効率な作業には心底うんざりしてしまい、「もう、こんなことやってられるか!」と、オリジナルのグラフィック・エディターを作りました。このツールのおかげでグラフィック作業がずいぶん効率化できたことで、開発工程におけるツールの必要性を痛感しました。開発会社にとってツールは、ある意味武器であり、武器の性能が戦争の勝敗を左右することを学んだことが、その後のサクセスの運営に生きていますね。

第1回【番外】『PLAY-BALL』のパンフレット

サクセスの処女作『PLAY BALL』。

 

吉成社長のつぶやき(2)

週に4日は道場に通って柔道で汗を流し、毎日夜中過ぎに就寝するという吉成社長だが、創業当時は会社に泊まり込むことが多かったらしい。

『「PLAY BALL」を作っている間、いちばんひどい時は1カ月で12回徹夜です。で、プログラマーは僕より1日多い13回徹夜しましたね。いまだに覚えてる(笑)。そうやって徹夜してると「ああ、仕事やってる!」って気分になるんです。ところが後になって振り返ってみると、徹夜した時って、仕事はたいして進んでないんですよね。でも、徹夜していると、そういう錯覚に陥るんです(笑)』

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