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「だったら、自分で作ればいい」(1)

社長室に入ると、左手の壁には大きなパネルが飾られている。描かれているのは、野球のユニフォーム姿のまるっこいキャラクターが数体。方眼紙の1コマ1コマを色鉛筆でていねいに塗りつぶしたドット絵だ。これは、1983年に発売されたアーケード用ゲーム『PLAY BALL』のキャラクター原画であり、吉成社長の手描きだというこの原画こそが、日本のゲーム史と共に歩んできたサクセスの原点でもある。
第1回02『PLAY-BALL』の手書きドット絵
吉成社長の手による『PLAY BALL』のキャラクター「ベー坊」のドット絵。この絵を元に、プログラマーが1ドットずつコード入力していった。

「インベーダー」の次を狙え

――サクセスが設立された当時は、インベーダーゲームが日本全国を席巻し、社会現象にもなっていた時期ですね。 吉成 当社はもともとアーケードゲーム機器の※オペレーター業務を行っており、当然インベーダーゲームも取り扱っていました。ところが、当時のゲーム業界には古い体質が残っていて、理不尽な慣習が横行していたんです。そのひとつが「抱き合わせ商法」でした。 ゲーム機を仕入れようとすると、まったく市場価値のないゲームとセットにして、2つセット、ときには3つセットで高値で売りつけられるんです。そんな理不尽な慣習に僕は心底腹が立っていた。それならば自分でゲームを作ってしまおうと思ったんです。 ※アーケードゲーム業界は、ゲームを作るメーカー、販売するディストリビューター、購入したゲーム機を、ゲームセンター・遊園地・ショッピングセンター等に設置して商売をするオペレーターの3つの業態に分けられる。オペレーターは、設置先店舗に、売上の40~50%を支払う。   ――すでにゲーム業界に携わっていたとはいえ、開発となると、ずいぶん勝手が違いますよね? 吉成 それはもう、何から何まで(笑)。当時はマイコン(マイクロコンピューター)が注目を浴び始めた時代でもあったので、アーケードゲームをはじめとするコンピューターゲーム市場が今後伸びるであろうことは予想できていました。 ただ、その時は、どうすればゲームが作れるかということに関しての情報は皆無でした。当時、僕が通っていたマイコン教室の講師に「インベーダーゲームを作るとすると、幾らぐらいでできますか?」と訊ねたら、「50万円程度だろう」という答えでした。そんな金額で済むはずもないのに、その時は「なるほど、そんなものなのか」と素直に信じてしまったんですね(笑)。で、「それなら作ろう!」と決意したわけです。最初に作ったのは野球ゲーム『PLAY BALL』でした。  

作った基板が動かない!?

――吉成社長はBASICを学ばれていたとのことですが、ご自身でシステムを開発したのでしょうか? 吉成 僕の技量ではさすがに難しかったので、外部に発注しました。 アーケードゲームというのは、回路設計から始まります。まず、どんな解像度にするか、発色は何色にするか、どんなICを使うか等を決めて、回路図を書きます。次に、回路図に基づいて試作基板を作ります。 回路設計は、最初は富士ゼロックスに勤めるエンジニアにアルバイトとして頼みました。だけど彼の手には負えなかったらしくて、いつまでたってもできあがってきません。しょうがないので、次にソニーのエンジニアに頼んで、やっと完成。その次にやることは、その回路図を元に試作基板を作ることなんですが、ソニーの下請けの会社にお願いして作ってもらったんです。   ――ようやく基板が完成したわけですね。 吉成 いやいや、そうもいきませんでした。ICを載せた試作基板はできあがったものの、電気を通してもさっぱり動かなかったんです。 それをなんとか動くようにしてくれたのが、うちで雇った新人のプログラマーでした。今になって思うと、彼は天才的な才能を持っていたんですね。もし才能がない人間だったら基板も完成していなかったはずですから(笑)。本当にラッキーだった! 基板完成までは本当に長かったですよ。回路設計にまず1年。それから試作基板を作って、動くようになるのにさらに半年以上だから、1年半もかかっちゃいましたね。 数千本のハンダで繋がれた線が正しく繋がれているか、導通不良のハンダがないか、それをひとつひとつテスターでチェックしていくんです。気が遠くなる作業でしたね。今思い出してもぞっとします。
『PLAY BALL』の回路設計図
基板の元となる設計図。使用するICの型番も書き込まれている。
第1回【番外】『PLAY-BALL』のBGM楽譜。作曲は吉成の親戚である作曲家つのごうじ氏
BGM楽譜。数々の有名アニメの主題歌を作曲した「つのごうじ」氏のゲームミュージック処女作。

吉成社長のつぶやき(1)

赤字続きにもかかわらず、ゲーム開発からの撤退を考えたことはないという吉成社長だが、一度だけ悩んだことがあるという。 『最初の試作基板を動かしてくれたプログラマー、こいつが、天才肌なんだけどめちゃくちゃ変人でね。昼過ぎにやってきて朝まで仕事していくから僕もつきあってずいぶん徹夜したものだけど、コミュニケーション能力がまったくない男だったから、心底まいってしまって、「今後ゲームを作っていくのに、こういう人種とつきあわなくてはいけないのであれば、もう開発を止めようかな・・・」って思いましたね。いつも「トランジスタ技術」や「インターフェース」を小脇に抱えてたなあ』

「だったら、自分で作ればいい」(2)

手さぐりは続く・・・

――基板の開発は難航したようですが、ソフト開発のほうはいかがでしたか? 吉成 これまた大変でしたね。今では考えられないような初歩的な失敗もずいぶんしました。 僕は「インベーダーに負けないものを!」と意気込んでいたから、8色使いの『スペースインベーダー』に対抗して「『PLAY BALL』は倍の16色だ!。ついでに解像度も倍にしてみよう!」と開発に取り組んだんです。ところがアーケードのモニターでは、そもそもそんな解像度に対応できていなかった。 こんなこともありました。最初に関わったプログラマーが、ひたすらフローチャートを書いていたから、「へえ、ソフトの設計はこんなふうにやるんだ」と感心して眺めていたんです。   ――フローチャートで設計するなんて、すごいですね! 吉成 残念ながら、そのフローチャートの出番は最後までありませんでした(笑)。   ――当時はまだ新しい業界ということもありますし、新規参入者ならではの苦労も多かったのですね。 吉成 何から何まで手探りでしたから。たとえば『PLAY BALL』のキャラクターデザインも、最初はデザイン会社に発注していたんですが、上がってきたデザインは気に入らないものばかり。僕の意図がまったく伝わらないんです。まあ無理もない話で、当時はいわばコンピューターゲーム業界の黎明期。ゲームのデザインができるようなCG会社なんて存在してませんでしたから。たまたま僕が子供のころから絵が得意だったこともあり、結局、自分で描いてしまいました。  

膨大な手間を超えて

--それでは、ゲームのグラフィックはすべて吉成社長が描かれていたのですか? 吉成 1996年ごろまではずっと僕自身でも描いてました。全部で100タイトルぶんくらいでしょうか。この部屋の壁にかけてある絵も、僕が描いたものです。 当時はこんな大きな方眼紙なんか市販されていないから、これまた建築事務所の製図板を借りて、線を一本一本引いて手製の方眼紙を作り、それを大判の紙でもコピーできる専門業者に持っていってコピーしました。僕がそこに鉛筆で絵を描いて色鉛筆で塗りつぶしたものを見ながら、プログラマーが1ドットずつ、16進数でコードを打ち込んでいったわけです。 ゲームで使用する音声も、雑音の入らない深夜に、自宅で自分の声を収録したものを使いました。   ――まだゲーム作りが完全にデジタル化されていなかった時代ならではのエピソードですね。 吉成 この時の、アナログで描いて手入力するという非効率な作業には心底うんざりしてしまい、「もう、こんなことやってられるか!」と、オリジナルのグラフィック・エディターを作りました。このツールのおかげでグラフィック作業がずいぶん効率化できたことで、開発工程におけるツールの必要性を痛感しました。開発会社にとってツールは、ある意味武器であり、武器の性能が戦争の勝敗を左右することを学んだことが、その後のサクセスの運営に生きていますね。
第1回【番外】『PLAY-BALL』のパンフレット
サクセスの処女作『PLAY BALL』。
 

吉成社長のつぶやき(2)

週に4日は道場に通って柔道で汗を流し、毎日夜中過ぎに就寝するという吉成社長だが、創業当時は会社に泊まり込むことが多かったらしい。 『「PLAY BALL」を作っている間、いちばんひどい時は1カ月で12回徹夜です。で、プログラマーは僕より1日多い13回徹夜しましたね。いまだに覚えてる(笑)。そうやって徹夜してると「ああ、仕事やってる!」って気分になるんです。ところが後になって振り返ってみると、徹夜した時って、仕事はたいして進んでないんですよね。でも、徹夜していると、そういう錯覚に陥るんです(笑)』

「だったら、自分で作ればいい」(3)

売れたのは、たった80枚弱

――さまざまな苦労を乗り越えてようやく完成した『PLAY BALL』ですが、売れ行きはいかがでしたか? 吉成 何千枚も売ろうと意気込んでいたのですが、結果は惨敗でした。2年がかりで、家を1軒買えるくらいのお金を注ぎ込んで作ったのに、売れた数は80枚弱! 赤字も赤字、大赤字でしたね。   ――1作目で思わぬ痛手を被ったことで、2作目の開発を躊躇することはありませんでしたか? 吉成 やめようとはまったく思いませんでした。どんなに失敗しても成功するまでやれば成功だ、と思っていましたから。それに、手元には売れ残った基板がいっぱいあるわけです。その基板に違うソフトを載せて売ればいいわけですから。   ――1984年に2作目『オセロ』を発売されていますが、2作目をオセロにしたのはなぜでしょう? 吉成 1作目の『PLAY BALL』を作っているころは、サクセスの社員は僕とプログラマーの2人だけでした。だからプログラマーが作業している間は、僕も彼に付き合ってずっと会社に残っていたんです。だけど僕では専門的な作業は手伝えない。それで、※マイコンに入ってたオセロのゲームで暇つぶしをしていたんです。おそらく1年以上はずーっとやっていましたね。 で、「こんなに長い間やっても飽きないんだから、オセロならきっといけるんじゃないか!?」と考えたわけです。まあ思いつきみたいなものですが、1作目を野球ゲームにしたのも「野球なら売れるだろう」という単純な理由でしたしね(笑)。 おかげさまで『オセロ』はなんとか1000枚くらいは売れて、残っていた基板もおおむね使い切ることができました。 ※当時はまだパソコンという言葉が一般的に使われていなかった。  

インベーダーにはまだまだ遠く…

――開発期間でも売上でも、1作目を大きく上回る結果となったのですね。 吉成 とはいえ、まだまだ赤字。弱小も弱小のメーカー時代が続きました(笑)。 当時のアーケード業界は、インベーダーゲームのタイトーが巨大な存在で、当時、僕の生きている内にタイトーを凌ぐ会社が出てくることなど、想像できませんでした。ゲームセンターには、タイトーの元祖『スペースインベーダー』を筆頭に、タイトーのライセンス商品から違法なコピー商品まで、あらゆるインベーダーゲームがひしめいていて、ゲームセンターという言葉以上に「インベーダーハウス」といった言葉が使われていました。 インベーダー全盛期のタイトーの経常利益は四百数十億円くらいで、当時のトヨタや新日鉄と並び称される程の企業でした。そこに、セガやナムコ、データイーストといったいろんなメーカーがインベーダーの次を狙っていました。   ――そこに切り込んでいくために、何か工夫されたことはありますか? 吉成 売れるゲームを作る以外にありません。アーケードゲームの業界では、メーカーはディストリビューターという基板の問屋さんに商品(基板)を卸し、そこから各オペレーターへと流通していきます。ですからメーカーがすることは、開発したゲームをいくつかのゲームセンターでテストしてもらい、あとはそこでの売れ行きデータなどを添えて、ディストリビューターにお任せするしかありませんから。 僕もよくテスト機を置いてもらったゲームセンターを覗いては、お客さんの反応を見ていたものでした。
第1回03『オセロ』のパンフレット
『オセロ』のパンフレット
 

吉成社長のつぶやき(3)

どんなゲーム作りも楽しいという吉成社長。プレイヤーとしてはどんなジャンルが好きなのだろうか。 『パズルゲームが好きですね。ストーリー性の高いRPGとかシミュレーションゲームはやらないですね。だってリアルのほうが面白いから。実生活で本物の格闘をやっていると、格闘ゲームなんて屁みたいなもんだって思っちゃう。シミュレーションは、ビジネスで毎日やってるし』

「だったら、自分で作ればいい」(4)

 初めてのヒット作

――『オセロ』以降も次々とゲームを製作していきますが、吉成社長がはじめて大きな手応えを感じた作品は何ですか? 吉成 『PLAY BALL』から4年後の1987年に出した『とんとん』という※店頭機でしょうか。当時から『ジャンケンマン』とか『新幹線ゲーム』といった10円玉で遊べる子供向けのゲーム機が人気でしたが、テレビモニターを使った初めての店頭機で、パンダのキャラを使ったメダルゲームです。アーケードの筐体を作っていた太陽自動機と協力して、うちが基板とソフトウェアの両方を開発しました。確か1500台は売れました。しばらくは競業がいない状況だったので、次々と子供向けゲームを作り、ひとつの新しい市場を作りました。それを見て大手メーカーが次々と参入し始め、それが後の『ムシキング』に繋がったわけです。 ※遊園地、玩具店、駄菓子屋等の店頭に置く子供向けゲーム機。
第1回04『とんとん』のパンフレット
テレビモニターを使った初めての店頭機。

画期的な開発手法

もうひとつが同じ年に開発した『上海』で、元々はアメリカで大ヒットしたMacintosh用ゲームをアーケード用にしたもので、同じ絵柄の麻雀牌を2枚ずつ選び取ってゆくというパズルゲームです。 当時PC98用に移植されたものが社内で人気になって、昼休みが終わってもゲームを止めない社員が増えたんですね。「休み時間は終わった。仕事だ仕事」と注意を何度もするようになって気づいたんです。「ここまで皆が熱中するなら、もしかしてアーケード用に移植したら売れるかもしれない」と。それで、当時の『上海』のパブリッシャーに問い合わせたところ、すでにサン電子という会社が権利を取得していることがわかりました。 残念と諦めていたところに、サン電子さんから「開発ができますか?」と問い合わせがあったんです。その条件が、「基板とソフト両方の開発を半年でお願いできますか?」だったんですね。普通、ゲームの開発は完成した基板があって、その上でソフト開発を進める訳ですが、その順番でやったら3カ月で基板を作り、残りの3カ月でソフトを作らないといけません。できるわけないですよね。先方の担当者もゲーム開発の経験がなかったから、そんな要求を平気で言えたんでしょうね。 しかし、「できます」と答えてしまったんです。答えた後で、どうするかを考えました。そこで考えた方法は、※PC98と同じような基板を作り、同時にソフト開発をPC98で平行で進めると、それぞれの作業に半年使える。この方法で基板とソフトを併せて半年で納品をすることができました。 ※1982年にNECから発売された当時最も普及していたパソコン。
上海
ハード開発とソフト開発を同時進行し、半年で完成した作品。
  ――この年には6本のゲームを発売されていますね。専門的な技能を持ったスタッフの確保には苦労されたのではありませんか? 吉成 この頃は、プログラマーは主に学生のアルバイトを雇っていました。まだまだプログラマーの絶対数が少なくて、正社員を雇うにはべらぼうな給料が必要だったんです。それに当時の開発は、アセンブラというコンピューター言語を使うのですが、アセンブラのプログラマーの絶対数が少なかったんです。そこで慶応、中央大、電通大といった大学の理工系の学生でアセンブラができる学生だけを集めました。当時のアルバイトで集めた学生は、その後大学の先生や一流企業のエンジニアとして活躍しています。   ――サクセスが作ったアーケードゲームで、最大のヒット作となったタイトルを教えてください。 吉成 1991年に発売したシューティングゲーム『コットン』は、サクセスの代表作といえるゲームになりました。 『コットン』の特徴は横スクロールの画面ですが、シューティングゲームといえばSF要素の多かった当時には珍しいコミカルな世界観とキャラクターで人気を集めました。アーケードでもコンシューマーでも、たくさんのシリーズ作品を出しました。   ――赤字でスタートした創業当時から考えると、これらの成功は感無量だったのではないでしょうか? 吉成 もちろん嬉しかったといえば嬉しかったけれど、この仕事の本当の楽しさっていうのは商業的な成功とはまた別にあるように思います。 ゲーム作りって楽しいんですよ。クリエイティブな仕事って、すごく楽しい。だから、大変なことはたくさんあるけれど、この仕事をやめようと思ったことは一度もないですね。
第1回【番外】『コットン』のパンフレット
サクセスの代表作の一つ。横スクロールのシューティング。
――アーケードゲームの基板やソフトを作ってきたサクセスが、初めてコンシューマーゲームを出すのが1992年。次回はこのときのお話を聞かせてください。  

吉成社長のつぶやき(4)

サクセスがコンシューマーに進出したのは、創業から10年目。ここがひとつの節目でしょうか、と訊ねてみると・・・。 『そういえば、どこまでが初期か中期か、なんてことは考えたことがないなあ。でも、サクセス創業後、何度も失敗を繰り返して、年商1億円を越えるのに10年もかかってるんです。超がつくほど成長の遅い会社だったことだけは確かですね』

コンシューマーへの挑戦(1)

社員2人から始まったサクセスも、アーケードゲームでいくつかの成功を重ね、ビデオ店頭機のジャンルでは大きなシェアを獲得するまでになっていた。 そして1991年、サクセスで手がけた初のコンシューマーゲームが世に出る。コンシューマーゲーム機としては圧倒的なシェアを誇っていたファミコンの後を追うように、各社がさまざまなハードを売り出した時代だった。  

増えてゆくタイトル数

――1995年あたりから年間発売タイトルが増え始め、99年には54タイトル、2000年には142タイトルにもなっていますね。 吉成 ゲームのタイトル数が増えている大きな理由は、アーケード、パソコンゲーム、コンシューマーゲームと開発する機種が増えたことにあります。 サクセスは1988年からはパソコン用ソフトを開発したり、1991年以降はゲームの他機種への移植などを始めました。アーケードとパソコンでは解像度も発色数もデータの持ち方も違うので、グラフィックデータのコンバート作業は大変なんですね。そこで作ったのが、オリジナルのグラフィックツール『GE』です。   ――具体的にはどういった機能を持っていたのでしょう? 吉成 当時のアーケードゲーム基板、家庭用ゲーム機、パソコンは機種によってすべて解像度も違えば、発色数も違っていたんですね。例えば、アーケード基板の解像度は、横256ドットまたは320ドット、縦240ドットが標準的で、家庭用ゲーム機は横256ドット、縦224ドット、といった具合です。また、使える色数も、カラーデータの持ち方も違っていたものを、『GE』という1つのツールですべての機種に対応したグラフィックデータを作れるようにしました。   ――発色数やカラーデータの持ち方というのは、アーケードとはそんなに違うものなのですか? 吉成 アーケード基板はグラフィックデータを、8×8ドットもしくは16×16ドットのキャラクター単位で管理するんです。色数もキャラクター単位で8色とか16色使えるのですが、その8色とか16色もキャラクター単位で選べるんです。でも、パソコンではもっと自由に、ドット単位で色を変えることができますよね。それを、当時発売されていたマルチスキャンモニターを使って、自由に解像度を変えたり、使える色もハードの性能に合わせて自由に設定できるようにしたツールを作ったんです。
第2回01『GE』のパンフレット
このグラフィックツールが、サクセスの躍進を後押しした。

初期のグラフィックツールとは

――『GE』が、サクセスが初めて作ったツールなのでしょうか? 吉成 最初の開発で、グラフィックツールの必要性を痛感して、最初に作ったツールは、ライトペンを使ったものでした。最近は見ることはないですが、当時はライトペンという、ペンの形をしたポインティングデバイスがあったんです。ブラウン管にライトペンを接触させると指定した色を入力できて、絵を描けるというものです。2作目の『オセロ』では、そのライトペンを使ってドット絵を描きました。 さらに、マルチスキャンモニターという、解像度を自由に変えられるモニターを組み合わせて、解像度や発色できる色数を自由に指定できるツールへと進化させていきました。それが『GE』です。   ――『GE』は、1990年に一般発売もされているのですね。 吉成 はい。残念ながらあまり売れませんでした(笑)。当時の他社の開発責任者の頭の中に、ゲームの移植という発想が無かったことが大きな理由でした。しかし、当社の開発タイトルが1300以上を数えたのは、この『GE』の存在が大きいと思います。  

吉成社長のつぶやき(5)

ゲーム移植の作業効率を飛躍的に伸ばした『GE』だが、商品としてはあまり売れなかったという。画期的なツールなのに、なぜだろうと考えていると。 『当時は、一部の人にしか良さを分かってもらえなかった。そもそも、仕事を合理化しようなんていう発想のあるサラリーマンは多くはないから。また、当時の社内にも、『GE』をもっともっと良くしよう、バージョンアップしようというモチベーションのある社員が一人もいなかった。いたら、今頃フォトショップやイラストレーターなんて使っていなかった』

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